前回のポストの続きになります。
ナポレオン1世です。
”世の辞書に不可能の文字はない”と言う言葉で有名です。
この時期、音楽の世界ではベートーベンがナポレオンをモチーフとした”英雄”を作曲しましたし、哲学の分野でもヘーゲルなどの巨人が現れたヨーロッパ文明が花開こうとしていた時期といっても過言ではないでしょう。
整形外科分野でもフランスを中心とした治療の進歩がみられます。
なぜフランスで整形外科治療が進歩し、有名な整形外科医が多数出現したのでしょうか。
これはナポレオン戦争では一説には200万人の命が奪われたとも言われています。多分、それの数倍の傷病者もいたのでしょう。
戦傷外傷患者の増加が整形外科分野の進歩を後押しした事は歴史の事実です。
ということでJBJSのナナメ読みです。
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近代の整形外科治療の基礎をつくった4人の軍医がいる。Dominique Jean Larry, Louis Seutin, Antonius Mathijsen, Nikolal Ivanovich Pirogovである。
Dominique Jean Larryはナポレオン1世のワーテルローの戦いに外科主任として参加している。Larryは歴史上初めて衛生兵を組織し、前線に移動用医療ユニットを持ち込んだことで知られている。1812年のBorodinoの戦いで腕を切断した歩兵に対して固くギプス固定をしたところ創部の治癒が得られたことを報告している。
Louis Seutinはナポレオン戦争時代のベルギーの外科主任出会った。Larryの方法を応用し、切断しを羊毛で固く固定している。創部の形に切ったボール紙にでんぷんを浸し、固定していた。この方法によって2,3日で固定ができるようになり、搬送期間の短縮と入院期間の短縮が可能となった。
同時期のもっとも有名なフランスの外科医としてはAlfred Velpeauがいる。(ベルポー固定のベルポーさんですね。)
ベルポーはSeutinの方法を改良し、数時間で固定が得られるようにしたことでも知られている。
Johann Friedrich Dieffenbachはベルリンの整形外科医である。Seutin、Velpeauの方法をもちいて内反尖足の治療を行った。箱の中で尖足を矯正した肢位で助手が固定する。その箱のなかに石膏を流し込み、その後箱を取り外すと言う方法であった。この方法をGuerinがパリで発展させ、かのLancet誌に投稿し掲載されている。(1832年のことです。日本では11代将軍徳川家斉の時代ですな)
この時代の石膏のギプスはまだ重く、全く身動きのとれないようなシロモノであった。Antonius Mathijsen, Nikolal Ivanovich Pirogovという二人の軍医が現代につながるような石膏ギプス方法を発展させた。
1851年に発表されたMatijsenの方法は2重にした布の間に乾いた石膏を挟み込み、容易にまけるようにしたものだった。この方法が現在のギプス包帯の基礎。となっている。
Pirogovはロシアペテルスブルグの軍陣医学学校の外科教授であった。彼は戦場に初めて女性の看護師を導入したことでも知られている。PirogovはMathjjsenの方法を知っていたものの独自の方法でギプス固定を進化させた。
1837年のクリミア戦争でPirogovの方法はロシア軍全体に導入された。
(ちなみにこのクリミア戦争で有名なのがフローレンス・ナイチンゲールですな。クリミア戦争以降環境衛生の概念が急激に発達しますが、その端緒となったのがナイチンゲールの働きです。)
Leopold Ollier(多発性内軟骨腫のOllier病のOllierさんです。)がこれらのギプス固定の有効性を骨膜反応を基盤として体系づけた。
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とギプス治療が一気に進化します。コレによれはギプス治療自体は150年間進歩のない治療といって良いのかもしれませんね。それだけインパクトのある治療であったのでしょう。
まだまだ続きます。
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